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ソーラー蓄電 軽キャンピングカーのカメラと温泉の一人旅
堺市わいわい写真クラブ所属
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2020年10月28日東照宮から奥塩原温泉へ

栃木県那須塩原市塩原温泉郷の中で最も高台にあり、唯一「硫黄泉」が湧き出るのが「奥塩原新湯温泉」です。奥塩原新湯温泉は、標高約1000mの山あいにある小さな温泉宿場です。日光国立公園塩原温泉郷の豊かな自然の中、質の高い温泉と静かな休息を楽しむ癒しの里です。源泉の異なる3つの共同浴場を巡って
当館では裏山の噴気口より湧き出す源泉をそのまま浴槽に注いでいる、源泉 100%の掛け流しの温泉です。江戸時代中期に発見された300年の歴史を持つ。山津波により塩原元湯温泉が壊滅した時に新しく温泉が湧き出したため新湯温泉と呼ばれるようになった。 


4軒の温泉宿が有料道路沿いに寄り添っている。なかでも「やまの宿・下藤屋」は明治元年の創業で、温泉街随一の格式を誇る。またむじなの湯、寺の湯、中の湯の3つの共同浴場があり、低料金で利用できる
温泉の中でも、独特な臭いがして最も温泉らしい「硫黄泉」には、血液をきれいにして血管を拡張し血行を良くし脂肪の燃焼を促進する効果があります。
また、気化した硫黄成分を呼吸で取り込むことでも同じ効果が得られるようです。
温泉教授の愛称で知られている松田教授先生も当館の温泉に入り、この効能に太鼓判を押してくださいました。
また、平成温泉番付表にも東の前頭として掲載されております。当時のお客様の中に幕末の英雄の一人に数えられ「江戸城無血開城」の立役者の山岡鉄舟もおりました。幾度となくご来館いただき当館の温泉をこよなく愛していただきました。当時は茨城県の参事を勤めている時期と聞いております。
 (余談です)
山岡 鉄舟は、幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。 鉄舟は号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。諱は高歩。一刀正伝無刀流の開祖。「幕末の三舟」のひとりです。
山岡鉄舟は明治天皇の家庭教師も勤めた大変に偉い方でした。
話は明治8年にさかのぼり最後の将軍の徳川慶喜の弟、徳川昭武の屋敷へ明治天皇が花見に出かけることになりました。その際侍従職にあった山岡鉄舟の発案で「あんぱん」を献上することになりました。文明開化の世の中で見かけは西洋中身は日本と当時の気風にも合致しました。『和魂洋才』です。 当時では珍しいパンに餡の入った「あんぱん」は明治天皇も大変気にいられそれ以降も引き続き献上されたそうです。
このあんぱんを作ったのが木村家の初代当主 木村安兵衛さんです。
4月4日は『あんぱんの日』 明治天皇が始めてあんぱんを召し上がった日です。
当館の創業は、天和(てんな)三年(1683年)で、徳川五代将軍・綱吉の時代とされております。  此の後 モミジ谷大橋を見学して福島県へ、、、、、、、






日光東照宮、徳川家康を神格化した東照大権現

 2020年10月 北関東の軽キャン漫遊記
10月28日中禅寺湖車中泊~いろは坂~東照宮へ6:30に到着早すぎました。🤣
いろは坂(いろはざか)は栃木県日光市馬返から、同市中禅寺湖畔間の国道120号の坂道を指します。 いろは坂の名称は、初期のいろは坂が48箇所のヘアピンカーブがあったことからその名が付けられまして初期のいろは坂から改良された現在の「いろは坂」は、華厳滝がある華厳渓谷を挟むように、北側に山下り専用の第一いろは坂と、南側に山登り専用の第二いろは坂に分けられて各一方通行です。この二つの坂に存在する48のカーブをいろは48音に例えており、個々のカーブには音に対応するひらがな文字板が建てられている。二つの坂道は、ふもとの馬返(うまがえし)と山頂の中禅寺湖畔でそれぞれ合流します。120号線の朝晩の混雑は名物みたいです、あきれます。
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る日光東照宮の建物には、多様な動物の木彫像が見られます。これらの動物のほとんどは平和を象徴している。眠り猫は踏ん張っていることから、実は家康を護るために寝ていると見せ掛け、いつでも飛びかかれる姿勢をしているともいわれているが、もう一つの教えとして、裏で雀が舞っていても「猫も寝るほどの平和」を表しているとも言われています。陽明門は、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と呼ばれています。奥社(徳川家康墓)、行くには石段を220段上ると 唐門と銅宝塔が有り此を1周して下りました。クタクタになりました。 此から奥塩原温泉街の下藤や旅館へ行きます。

徳川家康を神格化した東照大権現の墓


青銅製です

200段の階段を上りました

屋内は撮影禁止でした
余談です。
元和2年4月17日(1616年6月1日)、家康は駿府城で死去。柩は久能山に運ばれ、遺言に従って江戸幕府は同年12月(翌1617年1月)に久能山に東照社を創建した。これに伴い、朝廷は翌元和3年2月21日(1617年3月28日)、神社としての東照社に「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位、さらに、神格化された家康本人に対しても同年3月9日(4月14日)正一位を贈位している。幕府は日光にも建設を進め、家康死去から1周忌にあたる同年4月17日(5月21日)に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現が並立した。
しかしその後も各地の徳川・松平一門大名家、また3代将軍徳川家光による諸大名への造営の進言もあって譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた(廃絶されたものを含めると約700社が確認されている[1])。
1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、東照大権現は東照宮と称するようになった。
しかし明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。